この心臓は僕の身体で燃え尽きる


『③私は、臓器を提供しません。』
僕がいつか死体と定義されるようなことがあった時、
まだ機能する臓器があったとしても、誰にも提供しないことにした。
僕は臓器を提供しない権利を選ぶ。

どうしてこのようなことを書こうと思ったのかというと、4月末頃に体調を崩したことがきっかけだ。
11連休もあるGWの中、37.5度の微熱が数日間続き、夜も眠れないほどの腹痛に苦しむことになった。
近所の病院を受診したくともGWのお休みで、次に受診出来るのが3日後だった。
熱が引くこともなく、お腹が風船のように張っていき、いつもとは明らかに違う腹痛が続いた。
歩いた振動で強く痛むものだから、何もできずにただベッドの上で横になった数日を過ごした。

近所の消化器外科で検査を受けると、大腸で強い炎症を起こしている可能性のあることがわかった。
血液検査の数値を見せながら淡々と医師が説明をしていく。
炎症の数値が基準値に対してかなり高いらしく、精密検査が必要とのことだ。
この痛みに相応しい検査結果に納得しつつ、自分の体の状態にひどく動揺した。

近所の病院を出た足で、そのまま大きい病院へ向かい、一通りの検査を受けるとしっかり病名がついた。
慢性的に続いたお腹の痛みと、歩いた時の振動で痛む腹部とで、原因が違うらしいこともわかった。
もし、原因を分けて考えられない医者だったら、見落としたまま悪化して入院になっていたよと言われた。
抗生物質をもらって一週間様子を見ることになった。
大事に至らなくて本当に良かったとようやく安堵することが出来た。

だが、その日の夜のことだ。
今日一日の疲れもあったのだろうが、ひどい頭痛に襲われることになった。
自律神経が乱れているのか、寒気を感じているのに、暑くて汗が止まらない状態だった。
自分の体がどうなってしまっているのかに恐怖を感じた。
頭もお腹も痛くて、何を感じているのかもわからなくなっている自分を経験したことがなかった。
どうにかしないとこのままおかしくなりそうで、冷静な判断を下さないといけないと思った。
今感じているものが全て狂っているのなら、正しい情報を知る必要がある。
部屋の温度計に目を向けると暖房をつけていたのもあって30度を超えていた。
寒すぎて暑すぎるのであれば、きっと正しいのは暑い方だ。
汗もたくさんかいていて、シャツが濡れていた。
エアコンを消して、新しいシャツに着替え、水を飲んだ。
ベッドに横になるとまだ暑いので、床に座ることにした。
僕はおびえた子供のように、顔を覗かせる形で頭からシーツを被った。
そのまま何時間か考え事をしながら過ごすと、次第に頭痛が消えていった。
自律神経も正しく機能しているように感じた。
自分を安心させるようにもう一度水を飲んでからベッドに横になることにした。
疲れ切った僕はそのまま朝まで眠ることが出来た。

わかったことがある。
近い将来、僕に死ぬ時が来るとしたら、こういう風に死んでいくということだ。
何かしらの病気や体調不良で痛みを感じ、意識が朦朧とする中で、
家族や友人の顔を思い出し、誰かに助けてほしいと望みながらも、
誰も助けることが出来ないことを悟って瞼を下す。
いつか死を迎える時のオペレーションとでもいうか、
人間に仕組まれたシステムとでもいうのだろうか。
そういったものを感じ取ってしまった。

抗生物質が効いて、一週間でしっかり炎症は治った。
お腹の痛みも無くなって熱も再び上がるようなことはなかった。
しかし、明日を生きる希望を見出すことが出来なくなってしまっていた。
回復したはずなのに元気が全くなかった。
もうそれなりに長く生きたし、これ以上生きていても仕方がないのかもしれない。
これは死にたい訳じゃなくて、いつでも隣に『死』があることを理解したが故の考えだ。

そこで思い出したのが、臓器移植のことだ。
新しい保険証が届いた時に頭の片隅にずっと残っていて、
いつか時期が来たらしっかり考えようと思っていたことだった。
どうせ死ぬのなら臓器を提供してしまうのがいいのかもしれない、と始めはそういう考えだった。
ただ、この発想はヒーロー気取りで見栄を張って格好つけたもので、
何も考えていないからこそ言えるものだった。

そもそも何を提供できるのかもわかっていなかったから、
まずは「日本臓器移植ネットワーク」のホームページから臓器移植について調べることにした。
心臓から始まって、肺、肝臓、膵臓、腎臓、小腸、更には眼球(角膜)までと提供することが出来るみたいだ。
それ以外にも骨などの提供できる箇所もあるとのことだ。
臓器移植の様子を想像してみると、不思議なことにとても怖いと感じた。
自分が死ぬことよりも、切開されることや、臓器をこの身体から切り離されていくことが怖かった。
もうすでにこの時点で臓器提供をしたくない気持ちに偏っていた。
未来に希望すら抱けないと言っていたのに、しっかり肉体に執着のあることが人間らしいと思う。
それに対象を家族に置き換えてみると、僕は臓器提供をさせたくはなかった。
心臓が止まっているというのに、もうこれ以上傷つけないで欲しいと思った。
自分の身体をどうするか決める権利は、当然自分自身にあると思っていたのだけど、
どうやらそういう訳でもないみたいだ。

保険証に記載されている臓器提供には、脳死と判定された脳死後の臓器提供と、心臓が停止した後の臓器提供がある。
心臓が停止した後の臓器提供についてはまだ想像しやすかったのだけど、
脳死の場合の臓器提供についてはよくわからなかった。そもそも脳死がよくわからなかった。
更に知見を深めるために、脳死についてYOUTUBEに上がっている動画を見たり、
「脳死・臓器移植の本当の話」と「いのちの選択 今、考えたい脳死・臓器移植」という本を2冊読んだ。

脳死についての表面的なものはYOUTUBEで理解し、
本質的な面は本を読むことで理解を深めることが出来た。
読み終わって思ったのは、もし自分が脳死状態になったら臓器移植はしてほしくないということだった。
脳死についての認識があまりにも間違っていたので、
自分の言葉として何も書くことが出来ないのだけど、全部含めて本当に悲しいことが多すぎる。
言いたいことが溢れても、その大きな悲しみの前で僕からは何も言えない。

この時点で僕は、心臓が止まっても脳死と判定されても、臓器を移植しない意思が固まった。
『③私は、臓器を提供しません。』
保険証の裏面に初めて自分の意思を書き込んだ。

もし、何も書いてなかったら、臓器提供するかどうか選択するのは家族になる。
臓器提供するにしても家族の承諾が必要だ。
こういうのはどこかのタイミングでみんながそれぞれ考えを聞いておくのがいいのだろうか。
死について考えを共有するのは怖いことだけど必要なことだ。
可能であればどうか本を読んでほしいと切に願う。

『救われる命があるということは死んでいく命があるということだ。』

生きることについて考えていくと、生きていてもしょうがないと思うのに、
生きることを望んでいるのなら、このまま生きていくしかないみたいだ。
こんな光の射し方が許されるのだろうか。
いや、こんな光の射し方でしか届かない場所にいる僕をどうか許してほしい。