初めて詩に涙した時のこと

1.
十代も終わりに差し掛かろうとしていた頃のことだ。
無気力ではないけれども、決して情熱に溢れていた訳でもなく、これまでの人生に疲れてしまっていた。
ここから抜け出さなくてはいけないと焦りながらも、直接的に何かをやることも出来ずに日々を無為に過ごしていた。
楽しいことは本当に何もなかった。

夜中に散歩をするのが好きだった。音楽を聴きながら星を見て、ひたすらに歩いた。
この行動にもしかしたら何かがあるのかもしれないと希望を抱いていたから、僕はよく散歩をした。
虚しさを誤魔化すことも出来ず、期待した青春の煌めきに触れることもなかった。

14歳でギターを始めて、16歳から曲と詩を書き始めた。
弾けば弾くほどギターは上手くなったし、書けば書くほど自分らしい曲と詩を書けるようになった。
この時に思い描いた夢は音楽をやりたい気持ちだけで、音楽で生計を立てたい訳ではなかった。
とても純粋な気持ちだったから今も変わらずに残っているんだと思う。
決して楽しいから続けていた訳ではなく、虚しくて、孤独で、生きている意味も分からず、
やらざるを得ない所で曲を書き続けた。

ある日、お告げがあったかのように思い立って本を読むことにした。
未来の僕が救われるためには、とにかく言葉が必要だと感じた。
その時に買った本を覚えている。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と「春と修羅が入っている詩集」だった。
どうして宮沢賢治だったのかも思い出せないのだけれど、宮沢賢治じゃなきゃいけなくて、
はっきりと自分の意志で宮沢賢治をえらんだのを覚えている。
そこからは純文学を貪るように読み漁っていった。
決して満たされることはないけれど、虚しさを強く感じることが少なくなったようだった。
曲を書いて、散歩をして、本を読む生活を過ごした。

その内に純文学だけじゃなく、哲学と心理学に興味を持つようになった。
なぜ生きているのか、どうして虚しく感じるのか、なぜ自分は人を好きになることが出来ないのか、
そういった疑問に対して答えになるものがあることを僕は知らなかった。
哲学と心理学の本を読むことで、自分という人間が特別に苦しんでいる訳ではなく、
人として当たり前のように生きていることを知った。

その頃の僕の本の買い方は、読みたい小説を何冊か、難しすぎない哲学書を数冊、
心理学の棚にある本をごっそりと買っていくのが習慣になっていた。
そんな買い方を繰り返している内に、ある一冊の本に出会った。

2.
鎌田實さんという医師が書いた「がんばらない」という本を買ったのは、タイトルに惹かれたからだ。
この本に出会う前から僕は、「がんばらない」という選択をいつでも持てるように心がけていた。
そうしないと、頑張り続けてしまって倒れてしまうことを知っているからだ。
僕のような人は頑張らないくらいの意識が生きるのにちょうどいい。
だからこそ、この本のタイトルに惹かれることになった。

長野県にある諏訪中央病院を舞台に、若くして院長となった鎌田實さんと患者との想い出をしたためたこの本には、
死を眼前として、残された時間に向き合う患者の心情が多く描かれている。
命を持て余している僕にとっては、晴れた日にほど良く吹いた風のごとく、ちょうどよい温かさだった。
病の中で自身が望む人生の結び方を選択することを、当時の僕が理解できるわけもなかった。
終わらせていないだけの人生を、どうにかして変えたいともがいている僕にはあまりにも遠すぎた。
感動的でもなく、悲観的でもなく、希望的でもなく、特に何かを考えることもなく、
現実に起きた出来事に心を委ね、一つ一つを感じ取りながら、ページを読み進めていく。

そして、何の前触れもなく、促されるように僕は詩を読み始めた。
『障害予報』という詩だった。

障害予報

一年前 障害者でした
今日 障害者でした
明日 たぶん障害者でしょう

雨の日ありました
そんな日は つらかった

曇の日もあるでしょう
人生という空のしたで

心の天気が変わっても
晴の日を信じて

ひとを愛し 自分を愛し
ちょっと変わった身体だけど
この身体 まるごと愛して

障害予報 雨のち晴れに
なると いいね

昨日 障害者でした
今日 障害者でした
明日 たぶん障害者でしょう

(『ふうちゃんの詩 "女の子"のとき』冨永房枝著 グループ「風のオーラ」編 かど創房)

どうあがいても変えることの出来ない深い絶望の中で、
きっと何度も希望を見出そうとしたはずだ。
障害者でも健常者と同じように幸せになれるはずだと。
その想いをより強くして、障害者の自分を誇りとして生きることの出来る期間が訪れたはずだ。
自尊心が高まると次は社会の枠組みに苦しんで、接した誰かの心に苦しむはずだ。
そしてまた、自分が障害者であることを知って、何度も何度も泣いたはずだ。
自分に見えている内側と、誰かが見ている外側の相違に悩み続けたはずだ。

でも、この詩の作者は、決して希望を見出すことを辞めなかった。
それは自分が自分であることを、私自身が認めてあげることで見いだせたことのように僕は感じた。
不自由のある自分を、勝手に可哀そうと思われる自分を、選択肢を奪われる自分を、
障害のある自分を受け入れることでしか救われることがないことに気付いたように思う。

得ようとしたありとあらゆるものを諦めて、
変わらぬ絶望の中で泣くことにも疲れ切って、
それなのに眩しいくらいに輝いて空気の澄んだ朝が訪れた時に書かれたようなこの詩に、
僕は感情が抑えきれずにただただ泣いた。

3.
あれから十数年が経って、生涯大切にするであろう一編の詩をもう一度読みたいと思った。
どんなに心に響いて、心の支えになった詩であっても、
頭の中から詩が風化して読めなくなっていってしまった。
題名も忘れてしまって、残されていたのは最後の三行だけ。
それだけはずっと残っていた。

『がんばらない』という本の名前は覚えていたから、すぐに取り寄せることが出来た。
改めて読んでみると、生きていく中で死を身近に感じる経験をしてきていることを知った。
もう何年も前からずっと存在を確かに感じ取るようになっていた。
当時理解できなかった人生の結び方を、彼らがどうしてそういう選択を取ったのかを、
はっきりとわかるようになっていた。改めて素敵な本だった。
一つ一つの死に向き合いながら、ページを読み進みていく。

やはりこの時でも詩に出会うのは唐突であった。
久しぶりに再会をしてみると、懐かしい気持ちよりも、
詩の意味を自分に重ね合わせることなく、向き合うことが出来ている自分に驚いた。
僕は間違いなく自分を受け入れることが出来ていた。

そして、作者の名前が書いてあること、詩集の題名があることに気が付いた。
どうして当時気が付かなかったのだろうか。
冨永房枝さんという方について調べてみると、自分が思い描いていた印象とは違い、
命の輝きがほとばしっていて魅力溢れる方だった。
脳性まひで両手が不自由な冨永さんは、
足を使って詩を書いて、絵を書いて、キーボードを使って演奏をして表現を行っている方だった。

『ふうちゃんの詩 ”女の子”のとき』という20代の時に書かれたという詩集も取り寄せることにした。
そこには冨永房枝さんがどういう方なのかが明確に表されていた。
当時、一遍の詩から感じ取ったものを裏付けるかのように、20代の富永さんの感性を紐解いていく。
普遍的な詩もあったりするが、自分を受け入れるまでの過程が詰まっているように思う。
自分を受け入れなきゃいけないという意志からの強い痛みを、明るい言葉の詩から強く感じるものがあったりする。
決して弱い人なんかじゃない。強くあろうとする人だ。
そんな冨永さんだからこそ、あのように素敵な詩を書くことが出来たのかと納得できた。
時間軸は違えど、同世代の詩に心が震えていたこともわかった。
なんだかあの頃の僕が一人じゃなかったということが、今になって嬉しく思えてしまう。

いくらかはまともな大人になって、強くなった自分がいることを知っている。
だから昔のように血を流すこともなく、抉り出すこともなく、
自分の中にある弱さを丁寧に取り出すことが出来るんじゃないかと思って今回書くことにした。
いつまでもこの弱さを残しておきたいんだ。僕にとっていつまでも大切な弱さだからね。

人には様々な境遇があって、決して平等に生まれることはないだろう。
自分を受け入れられずに日々を過ごしている方も多くいることだろう。
僕はその視点を忘れたくない。その気持ちを忘れたくない。
これから作っていくであろう作品が誰かに届いた時に、
心の道しるべになっていってくれたらどんなに嬉しいことだろうか。

僕にとっての道しるべは、冨永房枝さんの『障害予報』だった。
いつかお会いすることが叶うなら、お礼を伝えたいな。
あなたのおかげで僕の人生は救われました、と。

※障害の表記について
今回の文章には、『障害予報』の詩を取り上げることから、
異なる表記をすることは、作者の表現に向き合うことに繋がらないため、
「障害」と表記させていただいております。