本当に伝えたいことを言葉にすると体が震えてしまうみたいだ。
心を見せられるだけの勇気が足りないなりに絞り出したということもあるのだろうが、
そもそも人に心を見せるという行為自体が怖いと僕は思う。
昔から僕は自分の心を見つめ続けてきた。
幼少期に立て続けに起きた、家族の問題や、生活環境の変化、学校での出来事に、
僕の心は一度、本当に壊れてしまったからだ。
あの時壊れて散り散りになった心の欠片の8割、もしくは9割を拾い集め終わるのに20代後半まで掛かった。
完全とまではいかなくても、20年以上掛けて、これが僕の心なのだと言えるようになった。
今はもうどこにあるのかわからない残りの心の欠片に執着することもなくなった。
もうこれ以上探さなくてもいいと思えたのは、「僕でも人を愛せる」という心の欠片をようやく知ることが出来たからだった。
心に向き合うことを選んできた僕の生き方は、絶えず孤独であったけれど、
心の美しさや痛みが分かる人になれたことが僕の誇りだ。
自分の心の形が見えるようになってくると、誰かの心の形も同じように見えてくるようになった。
大切に育てられてまっすぐに生きた心が、どこから見ても強く満ち足りていることや、
悲しい出来事の中でも愛を受けて育った心が、一切卑屈にならずありのままの透明さを持ち合わせていたことを、
それらの心を僕は忘れることが出来ない。
いびつな形の中で純粋さを保った僕の素直な心は、いつでもまた壊れてしまいそうだった。
壊れた心は壊れた心のまま生きていくしかないことも、再び壊れてしまわないように大切に守ってあげないといけないことも、
次があるとは限らないことも、何度でも、何度でも思い知ることになった。
単純に人を良く見るようになっていたのかもしれない。
言葉や仕草、目の表情から、一瞬の感情の発現を感じ取ったりすることが出てきた。
その感情に触れるたびに、僕の感情も意図しない方向に動かされて、疲弊することが多くなってしまった。
何かあったんだろうなとか、言葉と感情が相反しているんだろうなとか、そこにあなたはいないなとか。
誰かといると気になってしまうことが増えて、人と一緒にいることが辛くなってしまった。
無神経な奴になってみたり、自分の世界に入り込んでみたり、
どちらにしても無視をするという抵抗を試みても、当然あまりいい気持ちにはなれなかった。
人の心なんて見えなきゃもっと楽に生きられるのにね。
誰かの心が見えてしまうように、僕の心が見えてしまう人に出会うことがある。
お互い探る訳でもないのに見えてしまったり感じ取ったりしてしまうから、
そういう人にはどういう訳か、初対面の時から不思議な安心感を感じて、心を預けてしまうような感覚に陥ってしまう。
それとは別に、全然距離が遠いだろうと思っていた人から、
不意に言葉を心の奥の方にそっと置かれることがある。
何も見せていないはずなのにどうしてそこに言葉を届けられるのだろうかと、
ぎゅっと涙がにじむような感情にさせられたことがある。
なんだか僕は自分の気持ちを理解された経験があまりにも少ないように思う。
だから自分自身が何を考えているのかを、自分で分かってあげようと思ってこれまでずっと生きてきた。
それは与えられた環境に対して最善の方法だったと信じている。
こんな風に自分の想いを形にするようになって、色々な人に出会う中で、僕は心を取り戻すことが出来た。
だからわかるんだ。本当に心が壊れていたってことに。
それでいて、僕の心で感じていることは、誰かの心で感じていることと、
そんなに違いはないということを知ることが出来た。
わかってもらいたいという感情の居場所を、
僕は出会った人と共有することで救われたのかもしれない。
それは僕の居場所ということではなくて、僕たちの感情の居場所だ。
もっと人を信用してもいいのかもしれないと思えるのは、
きっとそういうことの積み重ねなんだろう。
それでね、ちょっとわかったことがあるんだ。
気が付かなきゃいけなかったことに。
確かに僕は人の感情に触れてしまうことが多いのは間違いないと思う。
ただそれだけじゃなくて、気が付かなきゃいけなかったのは、
心を見せてくれる人がいたから、僕は心に触れることが出来ていたかもしれないということなんだ。
その心に触れて疲弊してしまうなんて、もし僕を信頼してくれていた証なのだとしたら、
違う感じ方をしていたんじゃないのかと、どうしても考えてしまうんだ。
だから、もっと人を信用してもいいはずなんだ。本当ならね。
こんな風に心を見つめる中でまた一つ、心の欠片を拾ってみて、
まだ心にはめ合わせることが出来るだろうかと試行錯誤を繰り返してみる。
もし、その心の欠片がもう一度、僕の心に馴染むことが出来たなら、
あなたが心を見せてくれた時、あなたの心に触れて、
僕もまた同じように、僕の心を見せることが出来るようになりたい。
そんな勇気を僕は持ちたい。